バス満員御礼
一般的な寝台バス、三列ニ段
雲南省からチベットへ向かう道
大都市間を移動する場合は飛行機なり鉄道なりを利用することができるが、いざ小さな町や村を訪れるとなるとどうしても路線バスを利用するしかない。
 それに、鉄道の場合券を購入することは至難の業であって、一日がかりになっちゃう。
 ひどい時は数日を潰して望まなければいけないほどだ。
 しかしその一方でバスに関しては混雑することなくすんなりと券を買うことができる。というわけで、鉄道をトライしてだめで仕方なくバスの券を買ったなんていうことがよくある。
 大都市には何ヶ所かに長距離バスターミナルがあって、そこで当日の券を買うことができる。
 長距離のバスは必ず座席指定になっていて、番号が乗車券に記されている。
 あまりぎりぎりに券を購入すると一番後ろの一番乗り心地の悪い席に座らせられるから注意が必要なのだ。
 なにせ中国の道はデコボコが激しいから後部座席に座っていると何度も体が中に浮いて頭を打ち付けそうになってしまう。
 舗装してあれば比較的よいのだが、道なき道を行く場合、内臓が混ざっちゃいそうになる。
 バスはどれもひどく傷んでいて、ちゃんと動くのが恐ろしい程だ。
 しかも数百キロもの行程を行かなければならない。
 たぶん日本の車検にかけたら一台もパスできないような気がする。
 剥き出しになっているエンジンルームが客席から見えたり、床の板が剥がれて道が見えていたりするのは序の口。
 窓ガラスがなくて冷たい風が絶え間なく吹き込んでいたり、乗降口が閉まらなくなっていて開いたまま走ったりする有様。
 時々、乗り込んだ時にゲロの臭いが鋭く鼻を突くことがある。
 なぜか車酔いに弱い人が多いらしく、外から見るとどのバスもそれぞれの窓枠の下に茶色く吐いた跡がしみついている。
 間に合わなくて中でしてしまう人がいるから車内はいつもほのかな臭いに包まれているのである。
 本当に勘弁して欲しい。なにせ車内は逃げ場がないんだから。
 だからこっちまで気分が悪くなってきてしまう。
 窓を開けていたら、前の人の吐いたゲロを頭から浴びてしまったこともあった。
 中国ではいくら安いとはいえバスは高い乗り物であり、そうしょっちゅう利用するわけにはいかないし、それほど長距離を移動する機会も少ない。
 だから我々と違って車に慣れていないのだ。
 思えば僕も小学生の低学年までは車酔いをしていた。

 バスに乗車して始めに驚くのは床の汚さ。とにかく汚い。
 床が泥だらけなのは当たり前として、何よりも食べかすがひどい。
 中国の人はバスに乗ると必ず何かを食べ始める。
 上品なお菓子などを食べてくれる分には被害が少なくて済むのだが、果物が主流であるからその被害は計り知れない。
 一番の人気者はオレンジ。
 彼等はいつも携帯用のナイフを持っていて、袋からオレンジを取り出しては皮をナイフで切り取って床に捨てる。
 ひまわりの種も多く散乱している。
 はじめ鳥が食べているのかと思ったが、人間が食べている。
 なるほどひまわりの種は中国人のおやつになっているのだ。
 その中でも一番性質が悪いのは何といってもサトウキビ。
 これを食べると大量のゴミがでる。
 あまりにも町が汚れるのでサトウキビを禁止した国もあるくらいだ。
 窓際に座っていて、しかもたまたま窓が開いていて、気が向いた場合は食べかすを外に投げ捨てる場合があるのだが、基本的には床に吐き散らかす。
 しかもほとんど掃除をしないからバスの床はいつも汚くて臭い。
 その上みんながみんな床に痰を撒き散らすものだから足の踏み場もないし、壁に寄り掛かることもできない。
 いくら床が汚くても荷物を置かなくてはいけないから、バスを利用する度に荷物は泥だらけになるし、着ている服もかなり汚れてしまう。
 始めはバスの汚さをいちいち気にしていたが、何度も利用しているうちに何も感じなくなってしまった。
 それどころか稀に清潔なバスに当たると中国にいる感じがしなくて物足りなく思ってしまったりするから不思議。
 バスは何といっても乗り降りするのがすごく疲れる。
 長距離の場合は座席指定になっているのに、みんな猛烈な勢いで乗車していく。
 自分の席を確保するだけじゃなくて、荷物を置くスペースを確保する事が目的なのだ。
 いくら座席指定だといっても不当に占拠されてしまう事もある。
 その口論に負けてしまったら、恐怖の補助席に座る事になるからみんな必死。
 昼間の運行ならまだよいが、普通の座席のバスで夜行ともなれば座る席が重要になってくるからみんなの目の色も違ってくる。
 荷物に至っては一歩遅れてしまうと屋根に上げられてしまう。
 走行中に紛失した場合先ずは手元に戻らないだろうし、雨にでも降られたら最悪だ。
 だから人々はバスが到着すると、窓から荷物を投げ込んで窓から車内に入ってゆく。
 乗降口付近ではちょっとしたパニック状態になって、押すな押すなの乱闘状態にまで発展する。
 しかも信じられないほど多くの荷物を携えている人や、自分の何倍も大きい木の箱を背負っている人もいる。
 狭い通路には人の背の高さほどに荷物が積まれてしまうから、後で乗ってきた人はその荷物の上によじ登って這って自分の席に行かなくてはならないから一苦労である。
 バスの座席は異様にも狭く、ちょっと背の高い男性ならば普通にしていたら足が納まりきらない。
 だから小さくうずくまって座る事になる。
 長時間の夜行だったら拷問に近い。
 通路には荷物の山。網棚にはいっぱいに荷物が押し込まれ、時々落ちてくる。
 隣のおやじが寝ながら寄りかかってくるといった状態が朝まで続く。
 走っている時には車内の電灯を消してくれるのだが、途中の村に止まると電気をつけられるからその度に叩き起こされる。
 停車すると自分の荷物をごそごそあさって無理矢理降りていく人と、乗ってくる人がいて、いつも大騒ぎ。
 バスから降りるのも結構大変なことで、忘れ物をしないように気を配って荷物の山を這い、人の頭を超えて強引に降りる。
 もたもたしているうちに出発してしまっては大変だから運転手に呼びかけながら這い出ていく。
 こんな状態だから長距離バスに乗ると疲れきってしまって静養を要する程になるから、かなりの覚悟を決めて乗車するのだ。
 でも夜行の場合は普通の座席のものと寝台があって、寝台はそれなりに高くなっているけれども、普通の座席に比べれば格段に快適なのだから寝台がある場合はありがたく利用するべきだろう。
 はっきりいって座席の夜行は苦痛以上である。
 バス会社は「豪華寝台」と称して売り込んでいるが、そんな「豪華」と表示することが恥ずかしくないのかと疑問に思うほどである。
 寝台には上段と下段があって下段のほうが値段が高い。
 ゆれが少ないからだろうか。
 大型のバスに縦三列、合計二十人ちょっとのベットが備え付けられていて、異様に狭い。
 シーツと布団はかなり臭くて、数ヶ月洗っていないと思われる。
 その上、後ろの人の足が自分の頭の直ぐ下にくるような造りになっているものだから、後ろのオヤジの足の臭いこと臭いこと。
 それで十七時間も耐えなければならなかった。でも座席よりは格段に楽だ。
 下段は揺れないのだがそれなりの欠点がある。
 上段の人が痰を吐くので廊下は痰の雨が降る事になる。
 だから、いつか浴びせられるかとヒヤヒヤしながら眠らなくてはいけない。
 廊下には顔を出せないし、何よりも荷物が気になるのだ。
 やはり上段の振動は激しい。
 運悪く一番後ろの上段になってしまったことがあったが、バスは天井が高いわけではないから上段に寝てみるとすぐ近くに天井が追っている。
 バスがバウンドする度に体が宙に浮き、何度も頭を天井に打ち付けてしまう。
 常に頭は上下左右に動いているから、二十時間近くそのような状態でいると髪の毛があるにもかかわらず頭皮が擦れてヒリヒリしてくる。
 現地で知り合った日本人から聞いた話なのだが、寝台バスにテレビがついていて、運転手の好みなのだろうか、アダルトビデオが夜通し放映されていたという。わけ分からない。
 中国のバスは非常に時間にルーズである。
 時間通りに行ってもなかなか出発してくれない。
 それによく運行が取り消しになったりする。
 四川省の重慶から大足に行こうと思って朝十時出発の券を買ってバスに乗り込んだのだが、待てど暮らせど出発しないし、出発の気配すらない。
 九時から三十分毎に出発するバスがある筈なのにそれもない。
 結局客が少ないから客待ちをしているのであった。
 中国ではどのバスも満員状態で走っている。
 客が少なかったら絶対に動かさないのである。
 時刻表を見ながらイライラしていたのは僕だけだったようだ。
 二時間以上待たされてバスは動き出した。
 大抵一時間から二時間は動かない。

 重慶発大足行きのバスでちょっとしたハプニングがあった。
 一人の老人と車掌が口論を始め、大声で怒鳴り合っている。
 あまりにも早口で僕にはさっぱり理解することができない。
 互いに自分の正当性を主張し、他の乗客に理解してもらおうと必死になっているのだが、そのうちに他の乗客も次々とその口論に加わってバス全体が騒然としてきた。
 やがて四十人の怒鳴り合いに発展してしまい、見ていて恐怖感を感じるほどになった。運転手も喧嘩に加わったものだからバスは当然動かない。
 そのお陰で止まっているバスに物売りが色々なお菓子を売りに来る始末。
 僕一人何が起きたのかも分からずにキョロキョロするだけ。
 かなり長い時間が過ぎてみんな疲れたみたいで、冷静を少しずつ取り戻した。
 四十人を敵に回した車掌は激怒し、四十人の乗客全員に「迷惑料」としてそれぞれ一元の支払いを命令したのだった。さもないとバスを運行しないという。
 なんて車掌だ! と怒ったところでどうにもならない。
 なぜか全然関係のない僕も全体責任として一元を支払う羽目になってしまった。
 彼は思わぬ臨時収入を得てホクホクであった。
 四十元といえば安宿に一週間は滞在できるほどの大金なのである。
 バスで田舎道を旅していると、田んぼに突っ込んだマイクロバスや、崖底に落ちた大型トラックなどをよく見かける。
 さすがいいかげんな中国人が運転するだけあって事故は多いらしい。
 このバスだけは無事でありますようにと心の中でいつも祈っている。
 中国のバスでは気の休まる間がない。

 今までの話は長距離バスのお話であったが、市内バスとなるとまた違ってくる。
 市内バスには座席指定がないから始発では座席が確保できるかどうかが最大の問題となる。
 その分乗り込むときの騒ぎは想像を越えるものがあるのだ。
 バス停には人の海ができ、バスがやってくるとみんな一斉に駆け寄る。
 ちょうど、お腹を空かせて親鳥の帰りを待つ雛のところに親鳥が帰ってきた時の風景に似てる。
 そして我先にと肘を使い膝を使い、全身を使って乗り込んでゆく。
 ちょっとでも遅れをとろうものなら乗れない。
 直ぐにバスはいっぱいになって出発してしまう。
 一度逃してしまうと、「次こそは!」と意気込んで人民と同じように押し合いへし合いをして頑張る。
 バスはどの位置に停止するか分からない。
 バスが来るまでの自分の立ち位置は重要で、他の人民との頭脳プレイになる。
 日本のように次を待てば乗れるという理屈は成り立たないのだ。
 弱肉強食の世界。
 始発ならば乗るだけなのだが、途中駅であれば下車する人達とも闘わなければならない。
 中国では、
「降りる人が先」
だなんて、綺麗ごとは一切通用しない。
 その場にいる人達たちは、自分か乗ること、そして自分が降りることだけを考えている。
 うっかりしているといつまでたってもバスに乗れないし、降りられない。
 バスが到着すると同時に人民は我先にと体を張って乗り込んでゆく。
 降りる方も必死。
 結局、乗り降りの激しいバス停では毎回熱い戦いが繰り広げられる。
 乗客の中には例によって信じられない位大きな荷物を抱えている人がいて、戦いを一層困難なものにしている。
 よくあれで怪我人が出ないものだ。
 市内バスには必ず女性の車掌がいて、一人一人代金を回収していく。
 距離によって金額が違っているからその度に行き先を聞いて回る。
 彼女等のパワーは半端じゃない。
 どんなに混んでいても人を掻き分けて必ずやってきて料金を支払うように求めてくる。
 ここを職場にしている人達は偉い。
 それに、毎日こんなバスに乗って通勤している人民も偉い。
 日本のラッシュもひどいが、中国の比ではないのだ。
 乗るときも大変だが降りる時はもっと大変。
 降り遅れてしまったら長い距離を歩かなくてはならない。
 乗客をパンパンに詰め込んだオンボロバスは、大きなエンジン音を立てながらノロノロと街を動いてゆくのであった。
 なんでこんなにもバスが混んでいるのか。
 市内交通網が整備されていないのは大きな原因ではあるが、いくら整備されたところでこれだけの数の人民を迅速かつ快適に移動させることには無理がある。
 十二億人である。
 人口が増え続けている中国はこれから大変な人口問題に悩まされることになりそうだ。


平成7年6月
竹田恒泰