女帝とは何か?~江戸時代の女帝、明正天皇・後桜町天皇~

■江戸時代の女帝、明正天皇・後桜町天皇
称徳天皇以降、長期にわたって女帝はなかったが、江戸時代に初期になって七方九代目の女帝、明正天皇が誕生した。明正天皇は御名を興子(おきこ)と称し、後水尾天皇の第二皇女として元和(げんな)9年(1623)に生を受けた。母は2代将軍徳川秀忠の娘和子(まさこ)(後の東福門院(とうふくもんいん))である。寛永(かんえい)6年(1629)に内親王宣下を受け、僅か6歳で践祚し、7歳で即位した。 859年ぶりに女帝が誕生した裏には特殊な事情があった。父帝の後水尾天皇は将軍の娘を迎え入れた天皇であるも、徳川幕府とは度々対立し、幾度か譲位を試みた天皇として知られている。後水尾天皇を激怒させ、譲位を決意させる引き金になったのは紫衣(しえ)事件と、それに引き続く春日局(かすがのつぼね)参内事件であった。

朝幕間の対立事件となった紫衣事件は、江戸時代初期における、朝幕関係上最大の不和確執とされる。紫衣とは紫色の法衣を指し、最高位の僧侶にのみ着用が許されるもので、その着用は天皇の勅許を必要とする。ところが幕府は禁中並公家諸法度などの法令によって、朝廷が行う紫衣勅許に制限を加え、事前の届出を義務付けた。しかし、寛永4年(1627)7月、幕府は元和元年(1615)以降に紫衣勅許を受けた禅僧に対し、事前に届出がなかったことを理由に勅許を無効とした。朝廷は幕府の措置に強く反発し、また大徳寺住職の沢庵宗彭(たくあんそうほう)ら高僧が幕府に抗弁所を提出した。幕府は寛永6年7月、沢庵らを流罪に処し、後水尾天皇の逆鱗に触れることになった。 後水尾天皇を怒らせたのはそれだけではない。同年10月に幕府は三代将軍徳川家光の乳母お福(春日局)の禁裏訪問を実現させた。春日局は無位無官であり、通常天皇の拝謁が許される身分ではないが、伝奏(てんそう)三条西(さんじょうにし)の姉妹分との名目で半ば強引に参内にこじつけたのだ。この事件は「朝廷の権威は踏みにじられた」と周囲を嘆かせた。

後水尾天皇の逆鱗は頂点に達し、同年11月、ついに退位を強行、不快感を顕に幼少の内親王を即位させたのだ。これは後水尾天皇の強い怒りの現れであり、幕府に対する報復的な措置だった。退位した後水尾上皇はその後仏道修行に専念した。上皇は時に33歳、長期間院政を敷き、84歳の長寿を全うする。一方、7歳の少女には天皇としての責任を果たせるはずもなく、実際は摂家らの責任で政治が進められることになった。 明正天皇は践祚してから13年11ヶ月皇位にあったが、寛永20年(1643)に異母兄弟の素鵝宮(すがみや)紹仁(つぐひと)親王(後の後光明天皇)に譲位して上皇となった。後光明天皇は生母が園(その)光子(こうし)であり、徳川の血を引かない天皇なのだ。全ての筋道は後水尾上皇によるものであり、上皇の最期の意地を見ることができよう。

明正上皇は、譲位を済ませて大命を果たしたとはいえ、それでもまだ20歳の若さである。その後明正上皇は、後光明天皇、後西天皇、霊厳天皇、東山天皇の上皇として73歳まで生きた。 この時代政治の舞台は江戸に在り、かつての女帝が威厳を持って政治を執り行ったその姿が蘇ることはなく、また天皇の判断が求められても後水尾上皇か摂家が処理したため、明正天皇が表舞台に登場することはなかった。 明正天皇は弟宮が成長するまでの中継ぎ役の天皇であった。明正天皇の号は、かつての女帝、元明天皇と元正天皇の号から一字ずつを取って贈られたものである。

そしてわが国皇統史における最後の女帝となるのが後桜町天皇である。後桜町天皇は幼名を緋宮(あけのみや)、御名を智子(としこ)と称し、桜町天皇の第二皇女として元文(げんぶん)5年(1740)に誕生した。生母は関白二条(にじょう)吉忠(よしただ)の娘で女御(にょうご)の舎子(いえこ)である。寛延(かんえん)3年(1750)3月に内親王宣下を受けた。 父の桜町天皇には舎子との間に第一皇女盛子内親王があったが、10歳で亡くなっている。また智子内親王には一歳年下の異母弟がいた。第一皇子遐仁(とおひと)親王である。桜町天皇は延享(えんきょう)4年(1747)に6歳の第一皇子遐仁親王(桃園(ももぞの)天皇)に譲位した。しかし桃園天皇21歳の宝暦(ほうれき)12年(1762)7月に崩御となってしまった。

幸いにして桃園天皇には皇子英仁(ひでひと)親王があり、親王が皇位を継ぐものと思われた。だが、このとき英仁親王は4歳の幼少であり皇位を継ぐには余りにも幼すぎた。幼帝の擁立は多くの前例があるも、その場合は後見役となる上皇や皇族がいることが前提であり、このときは父帝だけでなく、祖父の中御門天皇も既に崩じており、後見役となる近親者がいなかった。したがってこのときばかりは幼帝の擁立も憚られることになり、幼い英仁親王が成長するまでの間、姉で22歳の緋宮智子内親王が皇位に就くことになったのだ。またしても伯母が即位して皇子の成長を待つ構図になった。 宝暦12年7月、緋宮智子内親王が践祚した。八方十代目の女帝、後桜町天皇である。明正天皇には後見役となる後水尾上皇があったが、後桜町天皇の場合は、父帝である桜町天皇と、1歳年下の弟帝の桃園天皇は共に崩御となっており、若くとも自立していなければいけない状況にあった。

英仁親王は周囲の期待を受けてすくすくと成長し、12歳となった明和(めいわ)5年(1770)、ついに立太子し、元服を済ませた。そして同年11月、後桜町天皇は英仁親王に譲位した。後桃園天皇の誕生である。 後桜町天皇は8年間在位し、30歳にして退位して上皇となった。皇子英仁親王が成長するまでの間暫定的に皇位に就くという当初の目的は達成され、後桜町天皇は上皇となった後は静かに余生を過ごすつもりでいたかもしれない。しかし、後桜町天皇の役割はまだ半分も終わっていなかった。

後桜町天皇から皇位を譲り受けた後桃園天皇は生来病弱であり、即位して9年の、安永(あんえい)8年(1779)、21歳の若さにしてあっけなく崩御してしまう。天皇に皇子はなく、生まれたばかりの皇女が一方あったのみ。このときが最も深刻な皇統断絶の危機であり、本書の冒頭につながる。 既に述べたとおり、宮中で様々な議論を経て最終的には、閑院宮(かんいんのみや)典仁(すけひと)親王の第六王子で8歳の祐宮(さちのみや)(光格(こうかく)天皇)が皇位を継ぐことになるのだが、後桜町上皇は再びしばらくの間幼帝の後見役を担わなければいけなくなった。

後桜町上皇は幼帝を厳しく育てた。光格天皇が閑院宮出身で傍系から即位した天皇であるため、上皇はその行く末を案じ、天皇に学問に励むように勧めた。その甲斐もあり光格天皇は勉強熱心に育った。そして上皇は公家たちに対して天皇を見習って勉強するように諭したと伝えられる。また傍系から即位した負い目も働き、光格天皇は歴代天皇の中で、天皇としての皇統意識を最も強く持つ天皇となった。上皇は和歌の道にも通じていた。後桜町天皇の御製(ぎょせい)集である『後桜町天皇御製』28冊に、実に1588首もの和歌が収められている。光格天皇も和歌好きで知られるが、それも後桜町上皇譲りであったろう。 後桜町上皇は譲位して43年後の文化(ぶんか)10年(1813)閏11月、74歳の生涯を閉じた。時に光格天皇42歳、明治維新まで55年である。明治維新への礎は後桜町天皇が固めたといってもよい。

これまで八方十代の女帝を順に紹介してきたが、それぞれの成立背景や役割は異なる。しかし、一定の共通項があるので、ここでまとめてみよう。 第一に、女帝は例外なく歴代天皇の男系の子孫であると指摘できる。女系子孫や外部から嫁いで来た女性が天皇になったことはない。 そして第二に、先帝の皇后が女帝になることを原則としているということだ。まさに推古天皇、皇極・斉明天皇、持統天皇は皇后であった。しかし、元明天皇は皇太子草壁皇子妃であり、元正天皇に至っては皇后でも皇太子妃でもなかったが、いずれにしても皇后、もしくはそれに準ずるように格上げされてから即位となっている。そのことからも、女帝は皇后であるべきだという不文律が依然として存在していたことが分かる。ただし、その原則も未婚の内親王が即位した元正天皇の例を以って変化し、以降の女帝は全て未婚の内親王となった。

第三に、女帝の係累は即位することができないことが指摘できる。元来女帝の擁立は、皇位継承を巡る政治的緊張を緩和させるのが趣旨であり、女帝の息子に皇位継承権があるならば、決して緊張緩和にはならなかったことからも明らかである。女帝とはその係累の皇位継承を否定された天皇であった。

しかし、斉明天皇が退位して中大兄皇子が即位して天智天皇となったことにより、その了解も空洞化されてしまう。ただし、中大兄皇子が皇太子である状況で斉明天皇が重祚したため、極めて特殊な例であると指摘できよう。だが次の持統天皇が文武天皇の即位を実現したことで、女帝の皇子についても皇位継承権が認められるようになったと見える。だが、元正天皇以降の女帝は全て未婚の内親王であったため、結局女帝の係累が即位する例は持統天皇と元明天皇の2例に限定される。 また第四に、女帝は一旦即位すると、婚姻した例も、出産した例もなく、これらを禁止した不文律が成立していた点を指摘しなくてはいけない。女帝は、在位中はもちろんのこと、退位した後も未亡人もしくは未婚の立場を貫き通さねばならない運命にあった。そしてこれは一つの例外もなく守られている。皇統が男系によって継承される以上、女帝の婚姻は理論的に許されるものではなく、本人に婚姻の意思があったとしても事実上不可能であった。 八方の女帝にはそれぞれのドラマがあるが、結果的にはいずれも正当な皇位の継承者となることはなく、全て「中継ぎ」の役割を担ったことになる。そして「中継ぎ」とはあくまでも「中継ぎ」であって、皇統断絶の危機に当たっての緊急避難ではない。皇位継承者がいなくなったとき、皇統断絶の危機を回避するために女性が天皇となった例は一例もないのだ。

~転載禁止~掲載日平成17年11月21日