女帝とは何か?~初の女性皇太子となり皇位を継いだ孝謙・称徳天皇~

■初の女性皇太子となり皇位を継いだ孝謙・称徳天皇

そして次の女帝は早くも聖武天皇の次に現れる。聖武天皇は神亀(じんき)4年(727)、藤原不比等の娘光明子(こうみょうし)との間に第一皇子の基(もとい)王が生まれると、33日目にして皇太子とした。生後間もなく皇太子となったのはそれまで前例がなかった。だが翌年9月に基王が急死してしまう。

しかしその頃、聖武天皇の二番目の皇子安積(あさか)親王が誕生するが、庶子だった。この時代は嫡系が圧倒的に優先される時代であり、安積親王の即位は最終手段と考えられた。 生来嫡子が生まれるかも知れないと、天皇を含め周囲が期待したに違いない。天皇は光明子を皇后に立て、嫡子の誕生を心待ちにしたが、その後皇子が生まれることはなかった。 基王が亡くなってから10年後の天平(てんぴょう)10年(738)、次に皇太子に立てられたのは聖武天皇の皇女で20歳になる阿倍(あべ)内親王だった。女性が皇太子になるのは後にも先にも例がない。 聖武天皇の皇子は庶系の安積親王ただ一人であり、その皇子を差し置いて皇女阿倍内親王が皇太子となったのだが、決して安積親王の立太子が否定されたわけではなく、むしろ「阿倍内親王の次は安積親王」という道筋が立てられたことになる。女帝となった阿倍内親王は、不文律により結婚も出産も厳しく禁止されることから、次は安積親王以外にないわけだ。

ところが、天平16年(744)閏正月に安積親王は急死してしまう。これで「阿倍内親王から安積親王へ」という皇位継承の構想が崩れ去ってしまった。阿倍内親王の次の皇位継承者が不在に陥る不安が広がった。 聖武天皇の皇子は二人とも他界してしまったため、聖武天皇の皇子を女帝の次の継承者にする途は完全に閉ざされてしまった。聖武天皇の父帝である文武天皇にも他に皇子はなく、それは草壁皇子系統の断絶を意味する。多くの皇子女に恵まれた天武天皇まで4世代さかのぼり、天武天皇の傍系から天皇を擁立するしか方法はなくなった。

そして天平(てんぴょう)勝宝(しょうほう)元年(749)7月、多くの不安要素を抱えながらも聖武天皇は皇太子阿倍内親王に譲位した。六方七代目の女帝、孝謙天皇である。即位後は聖武天皇が進めてきた東大寺の造営事業を受け継ぎ、大仏開眼会を執り行った。その頃、孝謙天皇を力強く後見していた聖武太上天皇は既に病床にあった。太上天皇は新田部(にいたべ)親王の子で、天武天皇の孫に当たる道祖(ふなど)王を皇太子に指名した、これは皇位が天武天皇の長子系から傍系に移ることを決めたことに他ならない。そして天平勝宝8年(756)5月に太上天皇崩御となる。 しかし、崩御から僅か10ヵ月後の天平(てんぴょう)宝字(ほうじ)元年(757)3月、孝謙天皇は皇太子道祖王を廃太子にする。素行が悪いというのが理由であるが、真相は不明である。孝謙天皇が替わりに皇太子にしたのは舎人(とねり)親王の子であり、天武天皇の孫に当たる大炊(おおい)王である。

孝謙天皇は天平宝字2年(758)8月に天皇の位を皇太子大炊王に譲った。淳仁(じゅんにん)天皇が誕生した。淳仁天皇と元来親密であった大納言藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)はこれを期に政治的に台頭することになる。大炊王を皇太子に擁立したのも仲麻呂の計略によるものだった。淳仁天皇の治世で仲麻呂は正一位まで上り詰め、権勢をふるった。 だが、孝謙天皇は必ずしも大炊王に皇位を継がせることに積極的だったわけではない。その証拠に淳仁天皇が即位したときに改元されなかった。天皇の即位と改元が不可分のものであるが、淳仁天皇の即位は改元を伴わない極めて異例な即位となった。 孝謙上皇と仲麻呂の間を取り持ってきた光明皇太后が天平宝字4年(760)6月に崩じると、上皇と仲麻呂の関係は急速に冷え込んだ。天平宝字6年(762)、孝謙上皇が近江の保良宮(ほらのみや)に滞在しているときに道鏡(どうきょう)との運命的な出会いを果たし、上皇の運命は思わぬ方向に動き出す。

上皇と道鏡が親密な関係になるにしたがい、淳仁天皇と仲麻呂の政治的な勢いに陰りが見え始める。上皇と道鏡のただならぬ関係に脅威を抱いた仲麻呂は、淳仁天皇を介して上皇を諌めた。すると孝謙上皇は激怒し、出家して法華寺(ほっけじ)に入ってしまう。さらに孝謙上皇は詔を発し「小さいことは天皇が行うも、国家の大事と賞罰は上皇が行う」と宣言して国政権を掌握する。かつて聖武天皇が譲位後に上皇として天皇をも凌駕する絶大な権力を振るったように、その子である孝謙上皇も名実共に第二の聖武となった。 仲麻呂は危機感をさらに強め、天皇の御璽を奪って天武天皇の孫に当たる塩焼(しおやき)王を擁立する謀反をたくらんだ。しかしこの企ては暴かれ、上皇から討伐の兵が向けられ、官位、藤原姓などを剥奪された。仲麻呂は近江へ逃れたが、天平宝字8年(764)9月、捕らえられ、一族もろとも殺害された。

これに伴い、孝謙上皇は淳仁天皇を捕らえて淡路へと流し、自らが復位して再び皇位に就いた。八代目の女帝、称徳天皇である。大化改新後に皇極天皇が重祚して以来109年ぶりの重祚となった。流された淳仁天皇は天平(てんぴょう)神護(じんご)元年(765)、配所より逃亡しようとしたところを捕らえられ、翌日崩じたと伝えられている。 重祚した称徳天皇は元号を天平神護に改め、2度目の大嘗祭を行った。称徳天皇の重祚は完了したものの、一旦先が見えた皇位継承問題は全く振り出しに戻ってしまった。 称徳天皇が再び天皇となったことで、政治的立場を強めたのは道鏡だった。天皇は道鏡を太政大臣禅師、そして法王として重く用い、道鏡の権威は頂点に達した。そして女帝と法王による共治体制が始まった。 ところが、神護景雲(じんごけいうん)4年(770)3月、称徳天皇は死の床に就く。天皇は白壁(しらかべ)王を皇位継承者に指名し、同年8月4日崩御となり52歳の生涯を閉じた。白壁王は施基皇子(しきのおうじ)の王子で、天智天皇の孫に当たる。白壁王は天武天皇の子孫ではないものの、妻の井上(いのうえ)内親王は聖武天皇の娘で称徳天皇の異母妹に当たるため、称徳天皇と白壁王は近い関係にある。また白壁王には井上内親王との間に他戸(おさべ)王が誕生していた。

白壁王が即位したことにより、皇統は天武天皇系から天智天皇系に移ったことになるが、皇統が草壁系から他に移る状況下における最も賢明で自然な選択をしたと思われる。白壁王は後に光仁(こうにん)天皇と追号される。 孝謙・称徳天皇は初の女性皇太子となり、自らの強い意志によって重祚を果たした天皇だった。女帝は「中継ぎ」という社会通念に対して果敢に挑戦したが、それを覆すことはできず、結局歴史的には「中継ぎ」としてくくられることになる。天皇の人生を難しいものにしたのは父聖武天皇の遺した皇子が二人とも若くして亡くなったことだった。しかし、紆余曲折があったものの、内乱を避けつつ草壁系から天智系へ皇統を移す大事業を成し遂げたことの歴史的意義は極めて大きい。そして平安時代に入ると皇太子の制度が整い、中継ぎとしての女帝は必要なくなる。しかし、これまで見てきた六方八代の女帝の足跡は、皇太子制度を作る上で大きな影響を与えたことは間違いがない。

~転載禁止~掲載日平成17年11月21日