女帝とは何か?~母娘二代続けての女帝となった元明天皇・元正天皇~

■母娘二代続けての女帝となった元明天皇・元正天皇

次に女帝となったのは文武天皇(珂瑠皇子)の実の母、元明天皇である。名を阿閇内親王といい、天智天皇の第四皇女として生を受けた。阿閇内親王は皇太子となる草壁皇子の妃となり、文武天皇、氷高(ひたか)内親王(後の元正(げんしょう)天皇)、そして吉備(きび)内親王を生んだ。 阿閇内親王は慶雲(けいうん)3年(706)11月、病床に伏した息子の文武天皇から譲位をしたい旨を聞かされた。このとき24歳の文武天皇は既に死の病に侵されていたのだ。内親王は初めこれを拒んだものの、結局文武天皇が崩御する直前に皇位を継ぐことに決めた。元明天皇、時に47歳、四方五代目の女帝である。

文武天皇には、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘宮子(みやこ)との間に5歳になる首皇子(おびとのおうじ)がいた。文武天皇も藤原不比等も首皇子が天皇になることを強く望んでいた。初めて年少天皇として即位したのは文武天皇だったが、いくら先例が開けたとはいえ、5歳にして天皇となるのは余りに若すぎる。また文武天皇のときは、先帝の持統天皇が退位後も太上天皇として後見したが、死の床についた文武天皇が新帝を後見することができないのは見えており、文武天皇が即位したのと同じ原理によって首皇子を即位させることは不可能だった。そのため、中継ぎ役として阿閇内親王が皇位を継ぐことが求められたのである。文武天皇を後見してきた持統天皇も5年前に崩御しており、そのとき文武天皇の頼れる身内は藤原不比等と阿閇内親王だけだった。元明天皇は、息子である文武天皇の求めによって即位した特別な例であり、今までの女帝の原理とは全く趣を異にする。ただし、祖母が孫の成長を待つという構造は持統天皇と等しい。

持統天皇以前の女帝は例外なく皇后だったが、阿閇内親王は皇太子草壁皇子の妃だったため、政治的立場に弱みがあったことは否めない。ただし慶雲4年(707)4月、草壁皇子の命日の4月13日が国忌(こっき)と定められ、草壁皇子が事実上の天皇、またその妃であった阿閇内親王が皇后とみなされた。元明天皇の即位はこのように慎重な手続きが踏まれて準備されたのである。 中継ぎ役として即位した元明天皇であるが、わが国最初の貨幣となる和同開珎を鋳造・施行させ、平城京への遷都をなすなど、果敢に政治に取り組んだ。

元明天皇は和銅(わどう)7年(714)6月、14歳の首皇子を立太子させた。そして天皇は翌年和同8年9月に、皇太子首皇子ではなく、首皇子の伯母に当たる氷高内親王に譲位した。五方六代目の女帝、元正天皇である。 女帝が二代続くのは初めての例であり、元明天皇と元正天皇は母娘の関係にある。また未婚の内親王が皇位に就くのも全く前例のないことだった。これまでの女帝は皇后であることが原則で、皇太子妃の阿閇内親王(元明天皇)ですら、夫の草壁皇子を事実上天皇とみなして内親王を皇后に準じた地位に引き上げる手続きが踏まれてきたことは既に述べたとおりである。 ただし、無秩序に先例破りがおこなわれたわけではない。首皇子の立太子前後に氷高内親王に増封があり、さらには一品(いっぽん)に叙している。これは氷高内親王を即位させるための準備であり、首皇子の立太子と氷高内親王の即位の準備は連動していると考えられる。

では元明天皇はなぜ首皇子を立太子させておきながら、皇位を首皇子に譲らずに、氷高内親王に譲ったのだろうか。これは首皇子が若干15歳であることと、首皇子の立場が必ずしも強くないことが関係していると思われる。 文武天皇が15歳で即位して年少天皇の道が開かれており、15歳という年齢は特別問題がないかのように見える。ただし、元明天皇が既に55歳に達していたことから、譲位の後に太上天皇として後見するにしても、首皇子が一人前になるまでの十数年間健在でいられる保証はないと考えたのではないだろうか。であれば、35歳の氷高内親王に一旦皇位を譲り、その後首皇子に継承していくことが上策となる。現に元明天皇は譲位した後6年で崩御となった。 天皇になっても安定した政権運営ができなければ元も子もない。元明天皇と藤原不比等は首皇子の皇太子としての立場を確固たるものに固めることを重視した。目先の利益ではなく、先のことまで考えた結果であり、元明天皇の選択は極めて賢明であったといえよう。ここに元明天皇の政治的センスの良さがうかがえる。

元正天皇は即位して9年の養老(ようろう)8年(724)2月、ついに23歳の皇太子首皇子に譲位した。聖武天皇の誕生である。このことは父である文武天皇だけでなく、祖母の元明天皇、そして伯母の元正天皇らの長年の夢だった。文武天皇と元明天皇は既に崩御しているが、譲位を済ませた元正天皇は大きな使命を成し遂げてさぞほっとしたことだろう。 元正天皇の存在は、結果として女帝の機能を「中継ぎ」に限定させることになった。中継ぎとしての女帝のありかたは持統天皇からの流れであるものの、元明天皇と元正天皇でほぼ決定的になり、後の女帝のありかたが決定されたといえる。

~転載禁止~掲載日平成17年11月21日