女帝とは何か?~皇位継承のありかたを変えた持統天皇~

■皇位継承のありかたを変えた持統天皇

三番目の女帝となった持統天皇は、壮絶な人生を歩んだ天皇だった。持統天皇は名を?野讃良(うののさららの)皇女(おうじょ)という。天武天皇の皇女であり、同時に天武天皇(大海人皇子)の皇后であると説明すれば、その立場の難しさを理解することができよう。白鳳(はくほう)元年(672)に起こった壬申の乱は彼女にとって、実の父と夫の間の争いであった。?野(うのの)は常に夫の大海人皇子と行動を共にし、勝利して夫が即位すると皇后になった。 天武天皇はカリスマ性の強い天皇だった。天皇は臣下が政治に関与するのを嫌い、皇族だけによる皇親政治を行った。そのため皇后?野も政治に参画し、よく天武天皇を助けたと伝えられる。 ?野の願望は天武天皇との間に儲けた実子草壁皇子(くさかべのおうじ)を次の天皇にすることだった。このことは?野にとって執念となり、この執念が三番目の女帝を誕生させ、そして譲位の制度を確立させただけではなく、これまでの兄弟相承から嫡系相承への道をひらき、ひいては皇位継承のあり方を根本から変えることになる。

天武天皇は9人の女性との間に10人の皇子と7人の皇女を儲けた。第一皇子の高市皇子(たけちのおうじ)は生母が地方豪族で庶系であったため、当時の慣習からして皇位に就く可能性は低かった。第二皇子か?野が生んだ嫡系の草壁皇子である。第三皇子の大津皇子(おおつのみこ)は、大田皇女との間に生まれた皇子である。大田皇女(おおたのひめみこ)は?野の同母姉に当たり既に没していた。大津皇子は草壁皇子のライバルになり得る存在であるも、草壁皇子は実母が皇后であり、しかも健在である点からして、他のどの皇子よりも遥かに優位な位置にいたと考えてよい。 天武(てんむ)10年(681)2月、草壁皇子が20歳となり立太子した。当時は立太子の適齢期が20歳とされていた。既に述べたように皇極天皇が生前譲位の初例となったものの、皇極天皇が譲位した裏には特殊な背景があり、いわゆる天皇が自らの意思によって皇太子に位を譲るという意味の譲位ではなかった。そのため、一旦即位して天皇になったなら崩御するまで退位することはできない慣習は依然として存在していた。草壁皇子が皇太子となったことで?野の願望が叶うかのように思えた。 ところが、天武15年(686)、天武天皇が崩御となり事態は急変した。本来であれば皇太子である草壁皇子が速やかに即位するべきであるが、時に草壁皇子25歳、天皇になるには少なくとも30歳でなくてはならないという不文律があり、草壁皇子の即位は実現しない。

草壁皇子の即位はほぼ絶望的と見られる中、何とかわが子を天皇にさせたい?野は、いわゆる法の隙間を突く方法を実行した。天武天皇が没した直後、皇后?野讃良が称制の女帝となったのである。称制とは、即位せずに政務を執ることで、その立場や権限は天皇とほぼ同等であった。斉明天皇が没したときに皇太子であった中大兄皇子(天智天皇)がしばらくの間即位せずに政務を執ったのが初例である。 ?野は自らが称制の女帝となることで、わが子草壁皇子が30歳に達するまで時間を稼げばよかったのだ。?野がなぜ即位せずに称制をとったかといえば、この当時は天皇自らの意思によって皇太子に譲位する慣習も前例もなかった。よって、もし?野が即位してしまうと、野が没するまで草壁皇子が皇位に就くことはできないことになる。?野と草壁皇子との年齢差は僅か16歳であり、いくら世代が違うとはいえ、草壁皇子の方が長生きする保証はどこにもない。5年間称制を敷き、その上で草壁皇子を即位させる目論見だった。間もなく野の願望が叶うかと思われた。

だが、歴代天皇の系譜に草壁皇子の名前が連ねられることはなかった。称制して3年目の持統(じとう)3年(689)4月、皇太子草壁皇子が28歳にして亡くなってしまう。わが子を皇位に就かせることに情熱を燃やしてきた?野の落胆ぶりは想像に難くない。 しかし、草壁皇子には7歳になる息子の珂瑠皇子(かるのおうじ)がいた。草壁皇子と天智天皇の娘阿閇(あへ)内親王(後の元明(げんめい)天皇)との間に生まれた子供である。?野の意識は草壁皇子から珂瑠皇子に移り、そしてそれは新たな執念となる。 持統4年(690)正月、ついに?野讃良は即位し、正式に天皇となった。三方四代目の女帝、持統天皇の誕生である。時に46歳。持統天皇の即位は、珂瑠皇子が成長することを待ち、珂瑠皇子に皇位を継承することを強く意識したものだった。 ただし、珂瑠皇子が皇太子となるには幾多の問題があった。当時皇位の継承は兄弟相承が原則であり、天武天皇には多数の皇子があったため、珂瑠皇子よりはむしろ草壁皇子の兄弟たちの方が優勢ともいえた。また、即位するためには30歳に達していることが必要であり、珂瑠皇子がこの条件を満たすには23年という長い時間が必要だった。その上、譲位の制度もなく、女帝の係累は即位できない暗黙のルールも存在していたのだ。 だが持統天皇は今までの兄弟相承から嫡系相承へ皇位継承の方法を改めることで衆議を一致させることに成功した。天皇は持統10年(696)、諸皇子と重臣たちを集めて皇位継承者について議論させた。その席で議論は紛糾したものの、嫡系相承に改めることで衆議の一致を見た。

兄弟相承から嫡系相承への変更は、皇位継承の根本を変更することになった。それにより、今までの先例に必ずしも拘束される必要がなくなった。つまり嫡系相承であるならば、譲位を認めて適切な時期に嫡子に皇位を継承させるべきであり、また新天皇が30歳に達している必要性も薄く、さらには歴代天皇の男系男子であるならば、女帝の係累であろうとも皇位に就くことが妨げられるべきではないことになる。初めて珂瑠皇子の立太子が可能になった。 持統天皇は持統11年(697)2月、珂瑠皇子を立太子させた。持統天皇はその後、少しでも早く譲位する必要があった。なぜなら、この時珂瑠皇子は15歳、これまでの慣習では年齢的に後15年の歳月を待たなくては即位することはできないからである。時に持統天皇は52歳、15年後まで生きている保証はなかった。 立太子から僅か半年後の同年8月1日、ついに持統天皇は譲位し珂瑠皇子が即位した。15歳の年少天皇、文武(もんむ)天皇の成立である。これは天皇の意思による生前譲位の初例、また年少皇太子即位の初例となった。二つの慣習が同時に破られたことになる。持統天皇の長年の夢がついに叶った。 持統天皇の果たした役割は大きかった。持統天皇は皇太子に生前譲位し、太上天皇となった初めての天皇であり、初めての年少天皇を成立させた。皇位継承のあり方を兄弟相承から嫡系相承に変更し、皇太子に関する制度を整えたことは、奈良時代の皇位継承の原則を決定付けることになったからである。持統天皇は譲位から5年後の大宝(たいほう)2年(702)12月、57歳で崩御となり、波乱に満ちた生涯を閉じた。

~転載禁止~掲載日平成17年11月21日