女帝とは何か?~初の譲位と重祚をなした皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇~

■初の譲位と重祚をなした皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇

推古天皇に次いで二番目の女帝となったのは、舒明天皇の皇后で、後の皇極(こうぎょく)天皇である。舒明天皇が崩じたとき、またしても皇位継承の争いが起きた。聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)、蘇我馬子の娘(法提郎媛)と舒明天皇との間に生まれた古人大兄皇子、そして舒明天皇と皇極天皇の間に生まれた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智(てんじ)天皇)など、次の後継者と目される人物が並び、皇位継承者争いを避けるため、崩じた天皇の皇后宝皇女(たからのおうじょ)が即位し、二代目の女帝、皇極天皇が誕生した。推古天皇が即位したのと同じような背景による。

しかし、争いを避けるためというのは、推古天皇のときと同様に表向きの理由である。時の権力者蘇我蝦夷の本当の狙いは、自分が推す古人大兄皇子を皇太子にすることだった。そのための第一段階としてまず女帝を立て、間もなく古人大兄皇子を皇太子にさせようとしていた。推古天皇の即位と聖徳太子の立太子が一体であったのと同様である。 だが皇極天皇が即位して間もなく皇太子を定めることができなかった。三人の有力候補者が並立する状況は、皇極天皇が即位しても変わらず、時の権力者蘇我蝦夷ですらも、群臣の意向を全く無視して古人大兄皇子を立太子させるわけにはいかなかったようだ。 ところが、蝦夷の息子の蘇我入鹿(そがのいるか)は、皇極(こうぎょく)2年(643)10月、古人大兄皇子を皇太子にするため、皇太子の有力候補である山背大兄皇子一族を襲わせ、山背大兄皇子は子弟妃妾と共に自決する事件が起こった。これがきっかけとなり、約1年半後に大化改新で蘇我入鹿が殺され、蘇我氏は滅亡することになる。

ここで我々は重大な事実に気付かなければいけない。当時有力な皇太子候補は古人大兄皇子以外にも、山背大兄皇子と中大兄皇子がいたが、入鹿は片方の山背大兄皇子を殺害し、中大兄皇子には指一本触れていない。古人大兄皇子を皇太子にするなら、山背大兄皇子だけでなく、同時に中大兄皇子も殺害しなければいけなかったはずだ。なぜ入鹿は中大兄皇子を殺害しようとしなかったのか。 京都女子大学瀧浪(たきなみ)貞子(さだこ)教授の学説によると「女帝の実子は皇太子になることができない」というルールが存在していたからだという。皇極天皇が即位したのは、古人大兄皇子を皇太子に導き出す構想によるものであり、決して皇極天皇実子の中大兄皇子を皇太子とする意図があったわけではない。皇極天皇の実子である中大兄皇子には立太子する資格はなく、そのため蘇我入鹿は中大兄皇子に何ら脅威を抱いていなかったという。 推古天皇の即位も皇位を巡る争いを回避し、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子に導き出すという蘇我馬子の構想によって実現したものであり、決して推古天皇実子の竹田皇子を皇太子とする意図があったわけではない。

わが国の皇統史において初の生前譲位は、大化改新で皇極天皇が譲位したときであり、推古天皇と皇極天皇の即位に際して在位中に譲位する発想は存在していなかった。とすると、両天皇が寿命に達した後に、実子の即位が予定されていたとは考えにくい。現に推古天皇は75歳まで存命し、竹田皇子の方が先に亡くなっている。したがって、推古天皇と皇極天皇は実子が成長するまでの中継ぎとして成立したのではない。 そもそも、女帝の本質は緩衝帯であった。もし女帝の実子が立太子できるならば、女帝を擁立することで、その先の皇位継承の道筋が確定してしまうことになり、女帝擁立の本来の大義である「争いの回避」にならなくなってしまう。女帝は緩衝帯として機能してきたのは事実であり、女帝の実子は立太子することができないとするのが自然な解釈であるはずだ。女帝を立てることの本質は、次の皇太子を導き出すことであり、次の皇太子を確定させることではない。 皇極天皇が生前譲位するまでは、現在と同様、天皇の代替わりは天皇の崩御による以外になかった。その代わり当時は現在と違い、皇位は必ずしも親子間の継承にこだわらず、むしろ兄弟間で頻繁に継承されてきた。兄弟間で継承できない場合に初めて一つ若い世代に皇位を移したと見て取ることができる。

案の定、世代が変わるときに皇太子を立てる習慣があった。つまり、兄弟間の継承の場合は候補者の人数が少ないが、世代が変わる場合は全ての天皇の皇子が候補者になるため、その人数は極端に多くなったからである。初の女帝誕生は、将に同一世代最後の天皇であった崇峻天皇が皇太子を立てる前に暗殺されたことによる。 皇極4年(645)、飛鳥板葺宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿が中大兄皇子に斬りかかられ殺害される事件が起きた。大化改新である。最期を悟った蘇我蝦夷も火を放って自害し、これを以って蘇我家が滅びた。そしてこのとき、皇極天皇が譲位した。 もともと皇極天皇は蘇我蝦夷が皇位継承を巡る争いを避けつつ、古人大兄皇子を立太子させる意図で擁立したのであり、蘇我氏が滅亡した今となっては、皇極天皇を支える背後が既になくなったと考えられる。そのような状況の中で譲位が行われた。 皇極天皇は次の天皇に中大兄皇子を指名するが、中大兄皇子は中臣鎌足(なかとみのかまたり)の助言を受けてこれを辞退した。その助言とは、兄の古人大兄皇子と叔父の軽皇子(かるのおうじ)を差し置いて即位すべきではないというものだった。蘇我入鹿を殺害し、蘇我氏を滅ぼしたのは中大兄皇子まさにその人であり、その直後に天皇となると皇位を簒奪したと見られる危険があった。 皇極天皇は弟の軽皇子に譲位することにした。軽皇子は古人大兄皇子こそ天皇になるべきだとしたが、蘇我氏が滅亡したことで、既に古人大兄皇子には後ろ盾がなく、古人大兄皇子本人も中大兄皇子の襲撃を恐れて出家し、いよいよ軽皇子が即位して孝徳(こうとく)天皇となった。そしてこの日、中大兄皇子が皇太子となった。

しかし、間もなく孝徳天皇と皇太子中大兄皇子の間に対立が生じることになる。白雉(はくち)4年(653)、中大兄皇子は都を大和に遷すように奏上したが、孝徳天皇はこれを拒否した。しかし、中大兄皇子は皇祖母尊(すめみやおやのみこと)(皇極天皇)、間人皇后(はしひとのこうごう)(孝徳天皇の皇后)、大海人皇子(おおあまのおうじ)(後の天武(てんむ)天皇)らを伴って大和の飛鳥河辺行宮(あすかのかわらのかりみや)に移り、公卿大夫以下官人の大半がこれに随行した。孝徳天皇は中大兄皇子に恨みを込め、白雉5年(654)10月に憤死したと伝えられている。 斉明(さいめい)元年(655)正月、皇祖母尊が再び天皇の位について斉明天皇となった。再び即位することを「重祚」という。皇極・斉明天皇は譲位したのも初めてであり、重祚したのも初めてである。 孝徳天皇が崩御したとき、皇太子中大兄皇子が次の天皇になるのが自然な流れである。だがこのとき中大兄皇子は即位せず、斉明天皇の重祚となった。孝徳天皇は中大兄皇子と対立した上で憤死したのであり、ここで中大兄皇子が即位してしまうと、またしても皇位を簒奪したといわれることになるために辞退した。このとき他に皇位を継承する候補者がいなかったため、中大兄皇子が皇太子の地位にありながら、斉明天皇の重祚となった。

~転載禁止~掲載日平成17年11月21日