女帝とは何か?~初の女帝推古天皇~

■初の女帝推古天皇

崇峻(すしゅん)5年(592)、崇峻天皇が蘇我馬子(そがのうまこ)に殺害されるというおぞましい事件が起こった。 この後に群臣の要請を受けて即位したのが敏達(びだつ)天皇の皇后豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)、後の推古天皇である。わが国最初の女帝がこのとき誕生した。 推古天皇の夫である敏達天皇は崇峻天皇の兄で、崇峻天皇から見れば推古天皇は兄嫁に当たる。推古天皇は欽明(きんめい)天皇の皇女で、敏達天皇・用明(ようめい)天皇・崇峻天皇も同じく欽明天皇の子である。推古天皇と敏達天皇は兄弟同士の婚姻だった。また崇峻天皇を殺害した蘇我馬子は、崇峻天皇と推古天皇の伯父に当たる。

中国と新羅(しらぎ)でも女帝が存在したが、中国では唐の時代の則天武后(そくてんぶこう)(690年即位)が唯一で、新羅では善徳(ぜんとく)女王(じょうおう)(632年即位)が初の女帝となり、以降合わせて三代しか例がなく、また百済(くだら)と高句麗(こうくり)では女帝は存在していない。推古天皇が即位したのが592年であるため、当時は中国にも朝鮮半島にも女帝の前例はなく、初めて例を作ったのがわが国の推古天皇だった。 それではなぜ日本に女帝が誕生したかといえば、それは皇位をめぐる争いを避けるためであった。崇峻天皇が突然殺害されたこのとき、皇位を巡る争いが起こった。崇峻天皇には皇子がいたが、天皇は皇后を立てておらず、その皇子は庶系だった。一方、崇峻天皇の先代は兄の用明天皇、またその先代は兄の敏達天皇であり、この三兄弟にはそれぞれ皇子があり、中には敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)(生母は皇后広姫(ひろひめ))と竹田皇子(たけだのみこ)(生母は皇后炊屋姫(かしきやひめ))、また用明天皇の皇子である厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子(しょうとくたいし)、生母は皇后?部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ))など、有力な候補者が多数存在していた。それぞれを推す群臣があったため、利害を一致させることは困難であった。

この時代は現在と違って天皇が在位中に皇太子を立てる明確な制度が確立しておらず、崇峻天皇は即位後僅か5年で殺害されたこともあり、後継者については何の選定もされていなかった。 皇位継承者を決めるための争いを避けるために、白羽の矢が立ったのが炊屋姫だった。今までの原理とは別の原理に基づいて皇位継承者を定めることで合意が成立したと見られる。炊屋姫は敏達の皇后、しかも欽明天皇の皇女であり、年齢も満38歳と、若手同士の後継争いからすると達観した位置にあった。炊屋姫が即位したことで争いは回避されたことになる。 推古女帝の誕生はこのように争いの回避という大義名分の上に成立したのであるが、実際は蘇我馬子が聖徳太子を皇位継承者に位置づけるたに描いた絵であったと考えてよい。推古天皇の母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘であり、推古天皇は馬子の姪に当たる。馬子は早い段階から聖徳太子の卓越した能力を見初めていて、一番親近感を抱いていた。聖徳太子は生まれて間もなく言葉を発し、聖人のごとき知恵の持ち主であったと伝えられている。一度に10人の訴えを聞き分けたという逸話は有名であるが、聖徳太子の業績である冠位十二階の制定、憲法十七条の制定、遣隋使の派遣、天皇紀など国史の編纂なども万人の知るところであろう。

推古天皇が即位して僅か4ヵ月後の推古(すいこ)元年(592)4月、聖徳太子が皇太子になった。これは蘇我馬子の思惑どおりの流れであり、推古天皇の即位と聖徳太子の立太子は一体のものであったと考えられる。立太子を済ませると聖徳太子は、天皇の代行者として国事を行う立場に立たせられ、事実上の摂政として機能した。天皇の健康に障害があって摂政が立てられることはあっても、このように五体満足で健康な天皇の元で天皇の代行者が存在できるというのは前例がなく、女帝の元で初めて可能だったのだ。 しかし、聖徳太子は蘇我馬子と推古天皇より先に命を落とした。推古天皇が没するとまたしても後継者争いが起こり、押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子(たむらのおうじ)が蘇我蝦夷(そがのえみし)の後押しを受けて即位し、舒明天皇となった。蝦夷が舒明天皇を推したのは、蘇我馬子の娘である法提郎媛(ほていいらつひめ)が舒明天皇と婚姻していて、二人の間に生まれた古人大兄皇子(ふるひとのおおえのおうじ)を次の天皇にしようと考えていたからである。 わが国初の女帝、推古天皇は、天皇の位を巡る争いを回避する大義の下で成立し、同時に皇太子を導き出す役割も担った。緩衝帯となったことだけではなく、皇位継承の筋道を作ったところ、そして東アジアにおいて女帝の先例を作ったことに推古天皇の本当の意味がある。

~転載禁止~掲載日平成17年11月21日