飢え死に列島

イナゴの大発生と、ヒトの大発生
地球に生命が発生したのが今から35億年前である。以来地球上では数々の生命が誕生したり滅びたりしながら一度も生命が途絶えることなく育まれてきた。そして人類が発生したのが僅か200万年前である。しかしこれも学説が分かれていて、人類の誕生は300万年もしくは400万年とも唱えられている。そもそも人類に正確な誕生日などあるはずもない。ヒトはサルから進化したのだとすれば移り変わる中間種がいたはずで、一定の時間をかけて変化してきたと考えられる。

2000年の段階で世界人口は61億人に達し、国連の人口予測によれば2025年には83億人、そして2050年には98億人が見込まれている。近年世界人口は毎年9000万人のペースで増加しており、これは人口の多さでは世界で11番目を誇るメキシコが毎年出現していることを意味する。国連の統計によれば紀元元年頃の世界人口は2億5000万人程度であると考えられており、また紀元1000年頃の世界人口は2億8000万人であって、人口は千年間で3000万人しか増加していない。その増加率は千年間で0.12%と極めて低い。一方、1995年から2000年にかけての人口の増加率は年1.49%であり、千年間で0.12%と一年間で1.49%では余りに違いすぎる。

紀元元年の人口が倍の5億人になったのは600年後の紀元1600年、その倍の10億人になったのはさらに230年後の紀元1830年、そしてその倍の20億人になったのはさらに100年後の1930年であり、人口が倍になるのに要する期間は時代と共に急速に短縮しており、人口増加率が急増していることが伺える。

では世界の人口はこのまま青天井でどこまでも増え続けることになるのであろうか。答えは「No」である。人口増加が2000年現在のペースで続けば世界人口が倍の120億人になるのに10年と数ヶ月しか要さない。しかし国連の人口予測がそれほど高い数字を示していないのは今後人口増加率が低下すると考えられているからである。これまでの統計で年増加率が最も高かったのは1965年から1970年にかけての平均年2.04%で、その後は徐々に年増加率が低下しており、国連の予測によれば2045年から2050年には年増加率が0.51%にまで落ち込むと推計されている。人類が誕生してからの二百万年の間、人口増加率は常に上昇を続けてきたが、1975年になって初めて減少に転じたのであり、これは人類史上の大事件であったといえよう。

自然界においても特定の生物が大発生することはあるが、いつまでも増え続けて地球上を埋め尽くしたことは一度もない。必ず途中で増加が止まり、その後個体数が激減して一定の数で安定することになる。それは生物が資源制約と環境制約を受けているからである。つまり生物は資源として食糧を必要としており、また生物が生きる上で必ず排泄物が出されるため、資源が枯渇するかまたは捨て場が枯渇するかのいずれかにより個体数が自然と制限されることになるのだ。例えばイナゴが大発生したとしても、そのイナゴが食糧を食い尽くした後には、累々と積み上げられたイナゴの死体が残るのみである。

したがって、すべての生物は資源制約と環境制約によって生存可能な数が決定されている。例えば食物連鎖の頂点に立つオオカミの数は、餌となるシカなどの動物の数によって制限され、またシカの数も餌となる草の量によって制限され、また草も大地に降り注ぐ太陽の光の量によって制限されている。すべての生命は植物が太陽の光を受けておこなう光合成に依存しているため、地球上で生存可能な生物の量は最終的には光合成の総量によって決定されるのである。

しかし人類はあたかもそのような制限を受けずに増加を続けているように見える。事実、人類が文明を持ち合わせていなければ人口問題は起きていなかったものと思われる。元来ヒトは食糧を調達することに人生の時間の大半を費やしてきた。ところが人類は後に農業という知恵を身につけ、効率よく食糧を得ることができることになり、余剰食糧を生じさせた。それが文明を芽生えさせたのである。余剰食糧は食糧生産に携わらない人間を出現させ、彼らが一ヶ所に集団で生活をするようになったことで都市が形成された。彼らは芸術や学問など食糧調達以外の分野で活躍し、文明を急速に発展させたのだ。これこそヒトが他の生物と異なっている部分であり、ヒト以外の生物はやはり原始社会の人類と同じく自らの食糧調達に生活時間のほとんどを費やしている。だからクマが読書をしてみたり、イワシがギターを弾いてみたりすることはないわけで、ヒト以外の動物が文明を築いたという話は聞いたことがない。

文明が芽生える以前の人類は与えられた範囲内でつつましく営みを繰り返してきた。このように月給の範囲内で生活している状態であれば破綻することはない。しかし人類は文明を発達させた結果、人類が必要とする資源と、人類が排出する廃棄物は地球の許容範囲を遥かに超えることとなったのである。本来ならば生物の個体数が許容範囲を超えた場合、先ほど説明したように個体数は強制的に調整されて急減期に減少させられるのであるが、人類は地下資源に手をつけることでその危機を乗り切ろうとした。つまり月給では生活ができなくなり、祖先の遺産である定期預金(地下資源)に手を付けて生活費に充て始めたのだ。そして今の人類は定期預金が底を付くことにおびえながら暮らしている。

限られた月給を使うことで排出される廃棄物はたかが知れていたものの、人類が定期預金に手を付けてしまったために人類の活動範囲は生態系にとって想定外の大きさに拡大し、そのため想定外の大量な廃棄物を生じさせてしまった。これまではいくらイナゴが大発生してもエコシステムそのものを破壊することはなかったが、人類の大発生はエコシステム自体を破壊しかねない深刻な状況を招いている。もしイナゴが農業を始めたり、クマが牧場を始めたりしていたら、彼らは文明を築き、生態系を狂わしていたかもしれない。人類は最近になってようやく資源が有限であること、そして捨て場が有限であることを知り、事の重大さに気付いたのである。 人類は自然の制約を受けずに増加を続けてきたかのように思えるが、人類は紛れもなく宇宙船地球号の住人の一部であり、確実に資源制約と環境制約の中で存在しているということを忘れてはならない。

増える食料需要、伸び悩む食料供給
世界人口が将来において安定するにしても、現在は人口が急増している最中であり、一歩間違うと深刻な食糧不足に陥る可能性がある。つまり人口は幾何級数的、つまりネズミ算式に増加するのに対して、食糧生産は算術級数的にしか増加させることはできないからである。
人類は19世紀に同じような悩みに遭遇したことがあったが、産業革命によって乗り切ることができた。産業革命は農業技術を発展させて食糧生産の効率を飛躍的に向上させたのである。しかし近代農業を支える農薬、化学肥料、機械そしてそれら機械を動かす燃料はすべて石油であり、収穫された食糧を消費地へ輸送するのも石油である。石油を利用することで人類は本来自然界では到底許されない個体数にまで人口を増加させてきたのだ。

また人類は技術革新だけでなく、農地を拡大させることによっても食糧増産を実現させてきた。しかし技術革新にしても農地の拡大にしても限界があり、両者とも既にその限界点に達している。穀作耕地面積は1980年頃をピークに既に減少が始まっており、未開地という未開地は既に農地になってしまっているため、これ以上農地を拡大させられる見込みはなくなってしまっている。

また技術革新についても、本来作物を作ることができない環境で作物を作れるようにしたところで、より多くの石油を消費することになり、根本的な解決に至らないし、農薬、化学肥料、機械はすでに十分研究がされていて、今後技術革新だけで生産効率を飛躍的に向上させられる可能性は薄い。そのために科学者たちの研究は遺伝子組み換えという思わぬ方向に進み、また別の問題を引き起こしている。農業生産の現場では効率こそが求められ、食物の安全性は二の次三の次というのが現実である。自分が食べる食物は別の田畑で作って、出荷する作物は決して食べることはないという農家が多いのが現実なのだ。

また畜産物の生産量と海洋漁獲量についても1990年頃を頭打ちに伸び悩んでいる。畜産物は放牧地の広さと収容能力に左右されるが、何れも限界に達し、過放牧の結果放牧地の収容能力は低下する傾向にある。また海洋漁獲量に関しても、FAO(国連食糧農業機関)の発表によれば15ある海洋漁場のすべてにおいて漁場の収容力ぎりぎり、あるいはそれを超えた操業が行われており、13の漁場が衰退傾向にあるという。 いったん食糧危機が起きると、穀物価格の暴騰という形で直ぐに結果が現れる。その際、穀物を自給している国は自国で必要な穀物は確実に確保することができ、そして経済力によって穀物を買い付けることができる国は必要最低限の穀物を調達することができる可能性があるが、それを続けていると国力が低下することは逃れようがなく、初めの段階で穀物の買い付けが可能であったとしてもそれがいつまで続くかは分からない。そして元々経済力が乏しい国は当初から深刻な穀物不足に悩むことになる 以上説明したとおり、食糧問題は深刻を極め、解決策としては人口を抑制するか、食糧生産をさらに拡大させるかの二つの方法しかない。食糧生産の拡大は限界に達していることは説明した通りだが、食糧生産を減少させないための努力は必要であろう。つまり耕地が工業用地に転換される場合が多いことなどには注意が必要だ。また約500万ヘクタールの耕地がタバコの生産のために使用されているが、世界的にタバコをなくそうとする傾向が強まればこれらの耕地で農作物を作ることができるようになる。

そして先進国と呼ばれる地域では一人当たりの肉の消費量が多く、家畜は穀物を食べて育つのが現実である。牛は体重を1キログラム増やすのに約7キログラムの穀物を必要とし、豚はと鶏は体重を1キログラム増やすのにそれぞれ約4キログラム、約2.2キログラムの穀物を必要とする。しかも家畜は骨などがあり、体重分すべてを食べることができないため、効率はさらに悪いものとなり、その中でも牛肉は特に効率が悪い食べ物であると指摘することができる。人口過密傾向にある発展途上国では人口の多さが大問題である反面、先進国では消費される食物の種類が大問題で、一人当たりより多くの穀物を消費する傾向がある。

家畜に与える穀物がありながら一方では人間の飢餓が進行しているというのは何とも皮肉な話であり、それを考えると、世界規模で食生活を見直すことができれば食糧問題は大きく改善されることとなろう。例えば日本では戦前まで四足動物を食べる習慣がほとんどなかったわけで、それもほんの数十年前の話である。牛肉よりは豚肉、豚肉よりは鶏肉、鶏肉よりは穀物そのものをより食べるような食習慣を世界的に確立したらどうだろうか。たとえば日本人が一人当たり消費する穀物の量は年々減少傾向にあり、もっと穀物を食べるようにすれば、直接的にも間接的にも日本が必要とする穀物の量は減少することになる。穀物を多く食べることで穀物の消費量を減らすことができるのだ。効率を改善すれば、食糧生産量は同じでもより多くの食糧を得たのと同じ結果を招く。

そして食糧問題解決の要は何といっても人口を抑制することである。早い段階で人口を抑制させるための政策を打ち出した国は人口抑制に成功しているが、政策が遅れた国は深刻な問題に突き当たっている。人口の抑制といえば中国の一人っ子政策が有名である。今中国の学校に行って「一人っ子の人は手を上げてください」といったら全員が手を上げることになるわけで、非常に不思議な状態ではあるが、この政策のおかげで中国の人口増加率は急速に低下し、結果として人口増加に歯止めをかけることに成功した。間もなく中国の人口は安定期に入り、21世紀の内に人口は減少に転じることが予測されている。そして現在は一人っ子同士が結婚した場合に、子供を二人まで生むことが許されるようになり、産児制限も緩和され始めている。

ところが中国の隣にあるインドは深刻である。1950年の段階で3億6000万人であったインドの人口は、1994年には9億人を突破、そして2050年には16億人を越え、その人口は中国を抜いて人口最多国となろうとしている。人口が抑制できない国は限られた資源を多くの国民で奪い合わなければいけない運命にあり、政治的にも難しい局面を迎えることになる。
原理的に考えると、国民の大多数が結婚し、そして子供を二人まで生む範囲において人口は安定する。したがって子供は二人までにすべきであるという世界的な認識を確立させることが不可欠であろう。

食料安全保障
安全保障というと軍事的な安全保障が強調されるが、安全保障は軍事だけでなく、食糧とエネルギーについても考慮しなければいけない。 日本が自給できている主要な食糧は米のみである。それ以外はすべて輸入により成り立っている。しかも日本は世界最大の穀物輸入国なのである。そしてその米ですら国内で自給することができるようになったのは1969年以降と、つい最近の話しで、それ以前は自給すらできずに輸入に頼り続けてきた。明治時代から大正時代にかけても同じく米は輸入しており、江戸時代以前は冷害が起こるたびに大規模な飢饉が起きていたのが現実である。しかも現在の日本は米を自給しているとはいえ、1993年には冷害のために米を緊急輸入したことがあり、自給の基盤も危ういものであると指摘できる。このように日本は大自然に恵まれた環境を持ちながらも、食糧面では歴史的に非常に脆弱な基盤しかなく、日本の歴史は食糧不足の歴史であるといってもいい過ぎではない。 しかし幸いにも日本は未だに経済力を保っており、現状では食糧がなくても金にものをいわせて海外から必要な食糧を買い付けることができているのであるが、それも経済力があっての話しで、一旦経済力が落ちたら状況は一変する。もしくは日本の経済力が低下しなくても、中国などの食料輸入国が今後大きな経済力を持つことになれば、日本の経済力が相対的に低下することによって同じ結果を招くことになる。

また仮に日本が十分な経済力を保持していたとしても、穀倉地帯で異常気象が起きて穀物価格が高騰すれば経済力を以ってしても食糧調達が十分に行えなくなることも考えられるし、不作が原因で毎年食糧を輸出していた国が自国の食糧をまかなうのが精一杯で、輸出をできなくなる状況もあり得る。また国家間の何らかの紛争により穀物輸出国が日本に対して穀物の輸出を停止することも考えなければならない。その場合、もはや日本の経済力の問題ではなくなってくる。 そして日本が外国から無事に食糧を買い付けることができたとしても、買い付けに必要な資金は国外に流出することになる。本来国内で自給できていればその資金は日本国内を還流することになるわけだが、自給できない結果、富は国外に流出し続ける。

ここまで食糧を外国に依存していると、必要な食糧を調達できるかという問題だけでは済まない。食糧を海外に依存している状態は、生命線を外国に握られていることを意味する。つまり国際政治において日本は、食糧輸出国に食糧輸出という政治的なカードを握られ、常に無言の圧力をかけ続けられるという問題が生じている。そうなると日本は食糧輸出国の機嫌を損なうような政策を打ち出すことはできなくなり、それらの国の言いなりにならざるを得ないのだ。もし日本が小麦粉やトウモロコシを輸入することができなくなったら日本が食糧危機に突入することは避けられない。

確かに日本は自動車や家電製品など優れた工業製品を生産することができる。しかし、「食糧を売ってくれないならば、車を売ってやらないよ」といったところで相手国は何も困りはしない。工業製品はあればよいが、なくても人の生死には影響しない。ところが食糧は直ぐに人の生死に関わるため、やはり食糧が自給できないのは国家として余りに弱すぎる。
食糧面において自立していない日本は、国家として自立していないことになる。食糧面で自立することは国家として自立する最低限のラインであり、エネルギーに関しても同様のことがいえる。

米を食え!
戦後日本人の食事は様変わりした。日本人の食卓には世界中の料理が並び、日本人ほど多様な食生活を営んでいる国民はいない。その結果、和食は数ある選択肢の一つになってしまった。マッカーサーがやってくるまで、日本人の食事といえば和食であり、米であった。日本人一人当たりの米の消費量は激減し、米が余るようになったために、減反政策が実施されることになったのだが、これは極めて危険な政策であると認識しなければならない。 つまり、日本で採れる作物を主食にし、これを国内生産で賄っていれば、食糧の自給率は高い水準で安定するはずである。しかし、日本人の主食が米からパンやらパスタに移った場合、日本で採れない作物に依存することになるため、自ずと食料自給率は低下することになる。そうなると、世界が平和である内はよいが、いざ国際情勢が不安定になった場合、日本は途端に食糧の買い付けに困窮し、一気に食糧危機を迎えるのだ。

食料自給率が低いということは、国家としての基盤が整っていないことを意味する。まして、日本は石油に依存する体制を作り上げてしまっているため、エネルギー自給率も低い。安全保障というのは、軍事面、食料面、エネルギー面の三つの側面があるが、軍事面は日米安全保障条約に見えるとおり、米国に加護されている。そして食料面でも、米国からの穀物の輸入が滞ったら日本人は食べてゆけない。その上、エネルギー面も米国に握られている。となると、結局日本は米国の言いなりになるしかない。それこそが、日本が51番目の州であり、日本の首相が「日本州知事」といわれる所以なのだ。これがゆえに日本の首相はポチにならざるを得ない。
日本人がパンとパスタを好んで食べるようになったのは、それが美味しいからではない。日本人に、アメリカンドリームの幻想を抱かせ、六十年がかりで日本人を食料面でも米国に依存させるための、計算された米国の陰謀であったということに、そろそろ気づいたほうがよいだろう。
パンを食べている場合ではない。減反をしている場合ではない。日本人なら米を食え!

竹田恒泰
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