寝ぼけた環境保護思想

私は「環境保護」という言葉が嫌いである。そこにはうそと偽善とごう慢がつきまとう。 保護というと、強くて余裕のある者が弱い者を保護してやるというニュアンスになる。 つまり環境を保護してあげるという意識になってしまう。はっきり言ってこの考え方は正しくない。 環境を保護してあげるとはあまりにおこがましいではないか。 環境は人間によって守られているのではなく、人間が環境に守られている事を忘れてはいけない。 人間はそこまで偉くはないのである。 「地球が危機に瀕(ひん)している」という。

しかし実際に危機に瀕しているのは地球でも環境でもない。 人類こそが風前の灯火(ともしび)なのだ。 人間は環境から守られなければ生き続けることはできないのである。 その人間が環境保護とはまだ10億年は早い。 有限な資源を散々収奪しておいて、今になって保護とはチャンチャラおかしいではないか。

保護という思想に振り回されているからこそ環境保護活動は的外れなものが多い。 たとえば古紙の回収運動などは、昔まではちゃんと回収業者がいて、仕事として成立していた。 ところが市民団体やPTAがボランティアでこれを始めたことで回収業者はことごとく廃業に追い込まれた。 これはボランティアという名の暴力である。 集め手が代わっただけで、環境には何の貢献もない。 そのような暇と余力があるのなら、紙を使わない社会を実現する運動をした方が意味があったはずだ。

運動のための運動になってしまっているケースがあまりに多い。 ではどのように考えるべきかというと、もっと謙虚に受け止めて、人類は大自然の恵みにはぐくまれていることを感謝すれば いい。 すると「共生」という意識が生まれる。 つまり大自然と人類が共生する道を探ることがテーマとなる。 このような考え方で環境問題にとり組まなければ間違った運動を区別することはできない。 運動の方向性が間違っていたら、がんばればがんばるほど間違った場所に早く着くだけなのだから。

竹田恒泰
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