危険なリサイクル

世間は空前のリサイクルブームで沸いている。リサイクルすることは善であり、リサイクルしないことは悪であるとされている。その流れに乗って企業は自らの商品がリサイクルした資源を使っていることを執拗にアピールし、行政はゴミの分別に力を注ぎ、市民は作られたリサイクルシステムに忠実に従ってきた。

しかし、リサイクルと称して回収したゴミは、その時点では「ゴミ」であって決して「資源」ではない。ゴミを資源に変えるには別の資源を投入する必要がある。例えばペットボトルを回収するためには車を走らせるわけで、そのためには当然石油を消費する。回収後も洗浄・裁断その他数多くの行程を踏む必要があり、やはり水・石油を始めとする資源を消費することになる。リサイクルは「リサイクルという名の産業」に他ならないのである。

つまり、新たに資源を投入して始めてリサイクルが成立するわけで、リサイクルすべきゴミがある一方、すべきでないゴミもあることになる。ところが日本ではこの議論を飛び越え、極めて効率の悪い、環境に必要以上の負担をかけてしまうリサイクルまでもが推奨されてきた。

ここで誤解して欲しくないのは、リサイクルがいけないと言っているわけではない。リサイクルは万能ではないということで、リサイクルしても環境に負荷がかかっていることを知る必要がある。さもないと心に「リサイクルできるから大量に消費してもよい」という甘えが生じてしまい、これは大変危険なことである。現に日本社会には危険な甘えが万延してしまった。これほど環境問題に関心が高まっても、三大リサイクルアイテムの紙・アルミ缶・ペットボトルは、毎年消費量は増加することはあっても減少することは無かった。その結果、いくらリサイクル運動が盛んになって回収率が高まったとしても投入される資源は増加し続ける事となり、環境への負荷も増大し続けてきた。つまりリサイクル運動は環境のための運動でなく、運動のための運動になってしまっているのだ。

資源・廃棄物問題を考える上で、リサイクルは重要ではあるが、リサイクルしか考えていないと完全な片手落ちである。ドイツではペットボトルは日本のものよりかなり肉厚のものが使われており、回収されたペットボトルは洗浄してそのまま何度も再利用されている。リサイクルという枠から飛び出して考えてみないとこのようなアイディアは生まれない。 結論的には処理が困難なものを作るメーカーに問題があり、またそのようなものを買い支える市民にこそ最大の問題があるわけで、処理だけを行政に押し付ける姿勢が完全な甘えの構造なのだ。 ダイオキシン問題でも日本は焼却炉をどうすればよいかと言う議論に終始しているが、ドイツでは燃やした時にダイオキシンが出るものは作らせない政策を徹底して問題を解決した。さすがドイツは環境先進国と評価されるだけあって、問題が起きる前に事前の手を打っていることに注目して欲しい。日本は問題が起きた後に処理方法を議論しているだけで、これでは「後の祭り」なのだ。

竹田恒泰
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