戦をしている場合じゃない

世の中は不思議なもので、本当に重要なことが議論されず、どうでもいいことばかり真剣に議論されたりする。 今人類が直面している最も深刻な問題は「環境問題」である。 残された僅かな時間の中、自然と人類が共生できる循環型社会を構築できるか否か、ぎりぎりの挑戦をしている最中である。 はっきり言って戦争なんかやっている場合ではないのだ。 日本でも同様で、どうでもいいことばかり議論され、そして報道されている。 鈴木宗男問題、田中真紀子問題で大騒ぎし、狂牛病問題では街中の焼き肉店が次々と閉店に追い込まれるところまで騒ぎが大きくなったのは記憶に新しい。 ところが、これらの問題は一見重要そうだが、日本の国益に照らし合わせてみると、大して重要な問題ではないことに気付く。 政治家の不正があれば淡々と事実を究明して、厳しく罰すればいいだけの話しで、刑事事件として検察が立件して裁判所で突き詰めればいい。 国会を総動員して騒ぐ必要はない。

まして、国会の運営費だけで一日約二億円、それに議員歳費を始めとする様々な経費を考慮すると巨額の税金が浪費されていることになる。 狂牛病にしても然りで、未だ一人の日本人が狂牛病に感染したとも聞かない。 それを考慮するのであれば、年間一万人の交通事故死亡者、年間三万人の自殺者の問題は遥かに重要かつ緊急な課題であるといえる。 広島・長崎の二つの原爆で一九四五年までに約二十一万人の方が亡くなっているが、交通事故と自殺者だけでも、二年半に一回の割合で原爆を落とされ続けているのと同じである。 ところがこの問題に対して政府は余りに無策である。今日本が本当に議論しなければいけないのは、迫り来る環境危機の中で、自国の食糧とエネルギーをいかに確保するか、安全保障は軍事だけでなく、食糧と資源についても議論を進めなければならない。 二十世紀の終わり頃人類は一筋の光を得ていた。 米ソの冷戦が終結し、国際社会でも環境問題が真剣に捉えられるようになり、人類が自然との共生の道を模索し始めていた。 ところがこの流れを根本的に覆したのが九一一事件と、それに続く米国の軍事行動である。 戦争の中において環境は無視される。 なぜならば最大の環境破壊は戦争によりもたらされるからである。

通常兵器であっても国土を焦土と化すような攻撃があれば、その攻撃に要する石油の量、放出される二酸化炭素・熱・粉塵の量も半端なものではなく、生態系に及ぼす影響も計り知れないことは容易に想像がつく。 ましてやこれが核兵器であったとすれば、環境に撒き散らされる放射能は地球全体を万年単位で汚染することになる。 また、核兵器でなくとも、劣化ウラン弾による放射能汚染が深刻な被害を引き起こしている。 劣化ウラン弾は、弾頭に劣化ウランを使用した爆弾で、戦車の装甲を貫通させる威力を持つことから対戦車用として、湾岸戦争・ユーゴ空爆で主に米国によって使用されてきた。 この劣化ウラン弾は通常兵器でありながらも放射能を撒き散らすため、着弾地点周辺は愚か、使用した側の兵士にも急性放射線中毒が現れるなど、米国内でも非難の声が上がっている。 このように戦争で兵器を使えば、通常社会ではあり得ないような規模で環境に負荷がかかることになる。 環境を重視すれば戦争はできないし、逆に戦争をしている国に環境を語る資格はない。 しかし、戦争による直接的な環境破壊も然ることながら、戦争を容認する社会では環境問題が軽視されてしまう。 循環型社会の実現、資源の循環、省エネ、太陽エネルギーの利用等と唱えたところで、戦争という大きな蓋に覆い被されてしまう。 このことが実は最大の問題であると言える。 大国が戦争を始める気運の中、共生への道を模索している挑戦者達の努力が社会から無視されてしまうのは悲しいことである。

環境問題は深刻である。 タイムリミットが近づいている。 人類は歴史を刻む上で、幾多の困難を乗り越えてきた。 しかしこの環境問題に関しては人類が史上一度も経験したことのない最も解決困難な問題である。 歴史は繰り返すというが、繰り返す余地すら残されていない。 地球という船が今沈まんとしている中、船長の座を巡って争いをしている場合ではない。戦などしている場合ではないのだ。

平成15年1月10日
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